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日南市鵜戸|鵜戸山別当墓地並びに墓(鵜戸山仁王護国寺)

(場所などは右上の鵜戸神宮のページに掲載した地図を参照願います。)

鵜戸神宮のある鵜戸岬で撮影した 鵜戸山別当墓地並びに墓

 鵜戸神宮の参拝路である八丁坂の最高所に位置する。鵜戸神宮は明治以前は神仏習合であり、鵜戸山仁王護国寺はその別当寺で、住職が別当職を兼ねた。
寺は、延暦5(786)年に勅号を得て創建されたと伝えられ、創建当時にさかのぼるものもあるようであるが、刻銘の判読できるものは五輪塔では大永6年(1526年)3月 快祐(第30世)がもっとも古いものである。
多くの別当の墓は井戸の枠のような形のもので、中央に自然石に名が刻んである。
このような墓は他にあまり例のない珍しいものです。 昭和45年11月3日 日南市文化財に指定。

現地案内板等を参考に記載




* このページの写真については拡大写真はありません。

鵜戸山別当墓地並びに墓 01


鵜戸山別当墓地並びに墓 02


以下は、鵜戸さん その信仰と伝承 / 本部雅裕著より引用
※ 引用に際し一部漢数字はアラビア数字に置き換えました。

当山は第十代まで天台宗でしたが、その後宗派を真言宗に変え、両部神道の一大道場として栄えたのでした。
代々の別当は五十九代の永きに亘り、真言宗本山智積院で学び、仁和寺(今の京都市右京区)で別当に任官、菊花十六紋章の緋衣を着けて奉仕を続けていたとい います。

歴代別当とその主な事績を、古書から引用しますと以下の通りです。
初代光喜坊快久荒廃していた神廟 仏閣 僧坊を再興 中興開山 天台宗 天長10年7月15日入寂 享年92
第2世精真 
第3世精誉 
第4世照能 
第5世精照 
第6世光照 
第7世玉能 
第人世祐仙 
第9世祐王 
第10世式部卿仁和寺の御門跡が兼摂 これより真言宗
第11世民部卿仁和寺御門跡が兼摂
第12世宮内卿仁和寺御門跡が兼摂
第13世頼忠 
第14世快能 
第15世精祐 
第16世祐真 
第17世快仙室町時代初期 このころ相馬四郎義元(慈恩)が霊窟にて剣法を覚り「念流(ねんりゅう)」と名付ける
第18世道海 
第19世空仙室町時代中期 このころ愛洲移香斎が霊窟に参龍して剣法「陰流(かげりゅう)」を創始する
第20世頼空 
第21世頼憲 
第22世教什 
第23世阿日 
第24世泉識 
第25世圓海 
第26世教精 
第27世教杲 
第28世舜遍天文12年12月14日 宮崎市瓜生野王楽寺にて遷化(せんげ) 墓及び位牌は王楽寺にある
第29世頼祐中興開山 新義真言宗智山派に転じる 興教大師作不動明王と5大尊を安置 国家安全武運長久諸人快楽の冥助を祈り護摩修行 このころから「西の高野」と称される
第30世快祐石塔には大永元年8月法印快祐とある
第31世精祐 
第32世譽翁権僧正
第33世盛秀権僧正 天正の頃
第34世實譽権僧正 王薬寺と兼務 永禄3年神殿再興 領主伊東義祐
第35世實慶元和のころ 俗名 渡遽氏
第36世實祝慶長のころ
第37世實精寛永元年3月26日遷化
第38世實祐寛永19年3月13日遷化 俗名 宇宿氏
第39世快能上之坊住持 託宣により別当となる 万治元年10月22日遷化
第40世眞替寛文2年4月19日くし触峯にて遷化 俗名 肥田木氏
第41世實仙総持寺留学十人年 法輪寺にて両部取合神道を学び鵜戸にて広めた方丈 眠蔵 茶の間 浴室を再興 築山に蘇鉄を植える 元禄4年10月10日くし触峯にて遷化 俗名 蛇原氏このころ 刀匠井上真改が鵜戸の霊水で刀を造る
第42世實眞元禄十年2月2十日摂津の国にて遷化 俗名 吉田氏
第43世良譽当山談林色衣の始祖 享保3年7月29日遷化 年82或いは81 俗名 谷口氏
第44世隆實方丈 境内 石段を普請 宝永5年3月24日酒谷にて遷化 俗名 弓削氏
第45世隆眞当山住職25年 享保20年4月22日遷化 年68 俗名 荒武氏 正徳元年神殿再興 今の社殿
第46世隆珍当山住職26年 天明4年8月26日89で遷化 俗名 時住民
第47世隆岳住山十一年のち梅ケ浜隠遁 天明4年7月21日遷化 『鵜戸山玄深記』 『神道奮時鏡』 の著がある 俗名 成合氏
第48世隆賢榎原慈尊院に十年余住山 のち明和5年鵜戸山別当となる 同6年入洛して昇官する 住山十一年 天明6年6月21日遷化 年82 俗名 井野氏 明和7年神殿修復
第49世隆戒安永7年12月別当に任じる 住山24年 享和2年正月13日遷化 年66 俗名 諸井氏 このころ今の八丁坂が完成
第50世隆仁住山17年 文化14年8月19日遷化 俗称平川氏
第51世隆峯郷原の人 初め榎原慈尊院住職8年 のち当山に転任 文化3年色衣許可 文政4年9月27日遷化 俗名 時任氏
第52世隆徳文政10年出火により隆真院に隠居する 文政11年10月6日遷化 俗名 荒武氏 文政8年8月13日風水害により山崩れがおこる 仁王門崩壊
第53世隆長住山8年 天保6年2月東郷平山に閉居 天保9年3月23日遷化 年53 俗名 飯星氏
第54世隆貫元治元年5月22日遷化 年73
第55世隆圓南郷潟上の人 嘉永2年8月24日遷化 俗名 平原氏
第56世伯仁吾田の人 慈尊院より転任 万延元年6月24日遷化 年60 俗名 平島氏
第57世隆弘飫肥の人 住山8年 慶応3年6月7日遷化 俗名 後藤氏
第58世不詳 
第59世観空最後の別当 この時明治維新となる 神仏分離 別当の廃止

これから後は、明治元年の太政官布告、いわゆる「神仏分離令」の発布によって、一千有余年間行われてきた神仏混清の信仰が廃されます。
第五十九世別当 観空の代を最後に当山から別当職はなくなり、仏教色が全て廃されることになります。
これら五十九世の別当さんたちの御霊が鎮まるところが、別当墓地です。
この墓地は、旧本参道の八丁坂を登りつめた頂上の近くにあります。
今はここを訪れる人もまばらですが、梅林のなかに苔むした五輪塔や、井戸枠型に石を組み、中に人の頭ほどの丸石を安置している塔頭(たっちゅう)と呼ばれる特異な石の群れが点 在しています。なかには丸い石に、別当の名を刻んだだけのものもあります。当地方では貴重な墓石群といえるものです。
 このような、当神宮の仏教との深い関わりから、毎年五月中旬には神仏両道による先人たちの慰霊祭を執行しています。「別当宮司先賢慰霊祭」がそれです。
この日は歴代別当宮司の墓前にその遺族が並び、宮司の御霊なごめの祝詞の次には、住職の読経が続くという、神仏習合時代さながらの風景が繰り広げられます。二千有余年の間、この鵜戸山を守 り、その発展に寄与された師徳を慕い、功績を称えるものです。
 / 引用 おわり



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〔 鵜戸神宮周辺外略地図 〕

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