天孫降臨神籬斎場 (古宮址) (高千穂河原) |
天孫降臨神籬斎場(てんそんこうりんひもろぎさいじょう)(古宮址)の写真Furumiya-ato Sjrine天孫降臨神籬(ひもろぎ)斎場 (古宮址) の位置住所:鹿児島県霧島市霧島田口(JR霧島神宮駅からタクシーで30分) 宮崎県との県境にあり、数百メートルで宮崎県小林市です。 アクセス マップ・地図リンク等 Mapfan 国土地理院地図閲覧サービスリンク 高千穂河原駐車場料金:普通車 1日410円。 右地図は、現地(高千穂河原)の案内板を撮影、加筆したものです。 霧島錦江湾国立公園 高千穂河原周辺案内図 (PDF リンク先 霧島観光サイト) 高千穂河原についての詳しい内容は下記ページを参照願います。 当サイト内関連ページ → 高千穂河原
高千穂河原霧島神宮古宮址 天孫降臨神籬斎場は、高千穂峰や、中岳、新燃岳への南の入口でもある、高千穂河原(タカチホガワラ)(標高970m)に位置します。天孫降臨神籬斎場 (古宮址)てんそんこうりんひもろぎさいじょう霧島の神社の歴史を簡単に・・・ 欽明天皇の時代(6世紀 530年〜568年)、矛峰(高千穂峰)と火常峰(御鉢)の鞍部、脊門丘に社殿が造られました。 高千穂峰に対する「山岳信仰」から始まった神社であろうと、言われている。 これが霧島の神社の始まりです。 ※左の写真は、高千穂峰山頂より、脊門丘・御鉢・高千穂河原方面を見たものです。拡大してご覧ください。(2011年の新燃岳爆発噴火以前に撮影したもの) この霧島の元宮について、江戸時代薩摩藩により編さんされた*「三国名勝図会」では、「高千穂神社と称しただろうかという。」とも書かれている。 活火山の隣に鎮座故、噴火によりたびたび炎上する。 788年 延暦7年 3月4日 (西暦788年4月18日)の御鉢噴火を、「続日本紀」はこう書き記しています。 七月巳酉の日、太宰府から報告、「去る三月四日戌の刻、大隅国の曽於郡曽乃峯で火炎が盛んに上がり、響きは雷のようであった。亥の刻におよんで火光はようやく止まり、ただ黒煙だけが見えるようになった。そしてその後、砂が降り、山頂下五・六里は砂石が積もり、二尺にも及んでいるようだ。その色は黒い」。 この時の噴火により、脊門丘 霧島元宮は焼失しました。 天暦年間(947年〜957年)、*性空上人は、ここ高千穂河原(かつては瀬多尾越と呼ばれておりました)に社殿を遷します。 しかし、文暦元年(1234年)の御鉢噴火でここも焼失します。 この時(文暦1年12月28日・西暦1235年1月25日)の御鉢の噴火で、霧島の神社・寺院および什宝、文書等をことごとく消失したようです。 この時の噴火で御鉢は一気に100m 以上高くなったと考えられています。 このときの噴出物が高原スコリアで、高原町狭野神社付近では1m 程度の厚さで堆積。また、霧島神宮から高千穂河原に至る県道沿いで観察できる溶岩の一部もこの時のものだそうです。 一旦、瀬多尾越から、長尾山 東霧島神社(宮崎県都城市高崎町)に遷座 年月を経、文明16年(1484)に島津第11代当主島津忠昌の命により、社を東西に分け、 東社を、現在の宮崎県高原町の霧島東神社 西社を、鹿児島県霧島町の霧島神宮として建立したそうです。 「天孫降臨神籬斎場」は、高千穂河原(瀬多尾越)の古宮址に、1940年(昭和15年)、皇紀2600年記念事業の一つとして、作られたものです。 *神籬(ひもろぎ)とは、神道において神社や神棚以外の場所において祭を行う場合、臨時に神を迎えるための依り代となるものです。(詳細はwikipedia参照)
*三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ) 三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)は、江戸時代後期に薩摩藩が編さんした薩摩国、大隅国、及び日向国の一部を含む領内の地誌や名所を記した文書。 *性空上人(しょうくうしょうにん) 〔延喜10年(910年)〜 寛弘4年3月10日(1007年)〕 平安時代 村上天皇の頃、天台法華仏教を奉じ、修験道の信仰を確立。霧島でも修行、霧島山信仰を体系づけたといわれております。 性空上人については、霧島六社権現ページを参照してください。 現在は、御鉢に阻まれ、高千穂峰主峰は見えませんが、文暦元年の御鉢噴火前は見えていたのかも知れません。 矛峯(高千穂峰)や、火常峯(御鉢)、脊門丘の霧島元宮≠フ遥拝の意図もこめて性空はこの地を選んだのかも知れません。 関連ページ 霧島神社総数諸説(三国名勝図会より)もご覧下さい。 三国名勝図会に見る、霧島山の噴火・霧島の神社 霧島六社権現『日本噴火志』(霧島山)・現代語訳 より 一部参照引用 文暦元年12月28日(1235.1.25) 噴火は甚だ盛んで、神社をみな焼き尽くした。 [三国名勝図会] ミヤマキリシマ5月の終わり〜6月初めにかけ、高千穂河原一帯には「ミヤマキリシマ」が咲きます。(写真は、2005年に撮影したものです。)2011年の新燃岳噴火の際、降り積もった火山灰でミヤマキリシマは痛み、以前よりは開花が少なくなったようですが、2013年3月訪れた際には、ツボミをつけたものも多く見られました。火山と共存するミヤマキリシマですので、いずれまた元のように復活する事でしょう。
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霧島 天孫降臨神籬斎場(てんそんこうりんひもろぎさいじょう)(古宮址)の写真クリックすると1280pix幅に拡大します。 |
この鳥居は明治39年5月建立されたもの。 |
ミヤマキリシマの咲く頃 (新燃岳噴火前 2005年撮影)
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新燃岳の活動に注意 当サイト内 新燃岳関連ページ → 新燃岳噴火時系列(時々情報更新中) 2017年(平成29年)5月29日時点で、新燃岳の噴火警戒レベルは1ですが、登山道は修復等を終え、安全確認が出来るまで従来のまま規制中です。 新燃岳・中岳付近の登山道は標識等も灰に埋まり、また、荒れており、滑落等危険な場所などあるようです。2013年10月末には遭難騒ぎも起きてしております。規制中の登山道には絶対立ち入らないようお願いします。 天孫降臨について(日向神話)天孫降臨は天照大御神(アマテラスオオミカミ)の命令で孫の迩迩芸命(ニニギノミコト)を地上の国へとつわかし、天孫による支配を確立するきっかけとなった。 迩迩芸命(ニニギノミコト)が降り立った所を、 古事記では 「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降ります」 日本書紀 には五種の説が併記 「日向の襲(そ)の高千穂の峯(みね)」 「筑紫(つくし)の日向(ひゅうが)の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」 「筑紫の日向の高千穂の串触之峯(くじふるのみね)」 「日向の襲之高千穂の串日二上峯(くしびふたかみのみね)」 「日向の襲之高千穂の添(そはり)の山峯」 この高千穂峰、つまり宮崎県西諸県高原町が日本発祥の地である とする説があるようですが、天孫降臨の地は、高千穂峰と宮崎県内でも北部に位置する西臼杵郡高千穂町の二説があります。 「天皇家の“ふるさと”日向をゆく」の著者 哲学者の梅原猛さんは 宮崎県発行季刊誌「Jaja」のインタビューで「霧島には高千穂という山(高千穂峰)はあっても地名は無く、稲作にも向いて無い事から、高千穂町の方と考えるべきかも知れない。」とコメントしている。 江戸時代の国学者 本居宣長は高千穂には二つの説があるものの「彼此を似て思へば、霧嶋山も、必神代の御跡と聞え、又臼杵郡なるも、古書どもに見えて、今も正しく、高千穂と云て、まがひなく、信に直ならざる地と聞ゆれば、かにかくに何れを其と、一方には決めがたくなむ、いとまぎらはし。」と、どちらにも決めることが出来ないと述べている。 本居宣長 古事記伝 巻十五 (文化5年(1808)版 町立高鍋図書館蔵) 「天孫降臨」の地、二つの高千穂について書かれた一部分。(霧島山の噴火のことも書かれている。) “彼此を似て思へば、霧嶋山も、必神代の御後と聞え、又臼杵郡なるも、古書どもに見えて、今も正しく、高千穂と云て、まがひなく、信に直ならざる地と聞ゆかば、かにかくに、何れを其と、一方には決めがたくなむ、いとまぎらはし。/古事記伝 十五之巻” 本居宣長は、二説併記以外に、移動説も提示 “つづら思ふに、神代の御典に、高千穂峯とあるは、二処にて、同名にて、かの臼杵郡なるも、又霧嶋山も、共に其山なるべし、 其は皇孫命初て天降坐し時、先二の内の、一方の高千穂峯に、下着賜いて、それより、今一方の高千穂に、移幸しなるべし、 其次序は、何か先、何か後なりけむ、知るべきにあらざれども、終に笠沙御崎に留賜へりし、路次を似て思へば、初に先降着賜ひしは、臼杵郡なる高千穂山にて、其より霧嶋山に遷坐して、さて其山を下りて、空国を行去て、笠沙御崎には、到坐しなるべし / 古事記伝 十七之巻” 当サイト内関連ページ 高千穂町のくしふる峰にあるくしふる神社 リンク 宮崎県のWebPage 神話と伝承101より 「高千穂峰と降臨」 |
霧島 ・天孫降臨神籬斎場(てんそんこうりんひもろぎさいじょう)(古宮址)の写真2013.03Up (写真は過去撮ったものを含め掲載。) ご意見、ご感想等ございましたらへ 「霧島、宮崎」の画像を気軽にUPして下さい。ご自由にどうぞ→PhotoMiyazaki画像あっぷあっぷBBS |
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