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的野正八幡宮(まとのしょうはちまんぐう)的野正八幡宮 鎮座地 〒889-1801 宮崎県都城市山之口町富吉1412番 マップファン 緯度経度 N=31.45.52.0 E=131.9.28.5 山之口駅[出口]から徒歩約25分 的野正八幡宮の御祭神息長帯姫命(おきながたらひめのみこと) 神功皇后誉田別命(ほんだわけのみこと) 応神天皇 玉依姫命(たまよりひめのみこと) 神武天皇の母 的野正八幡宮 例祭等大祭例祭(御神幸祭)11月3日 (弥五郎どん祭り) 春祭 (新年祭)3月初卯 秋祭(新嘗祭)11月23日 中祭 元旦祭 1月1日 除夜祭 12月31日 夏祭(六月灯)7月25日 小祭 七五三歳 1月7日 厄年祓祭 1月7日 的野正八幡宮は、国分八幡宮の系列といわれ、和銅3年(奈良時代のはじめ西暦710年)に創建されたと伝えられる。 その古さは近郷にもめずらしいとされる。 三股院(現在の山之口町・高城町・三股町・都城市の一部)の総鎮守であり、歴代の院司や領主は勿論、多くの民から厚い崇敬を受けていた。又、当神社は特に五穀豊穣・商売繁盛・家内安全・交通安全・合格祈願・子育て安産・武運長久としてご利益があり、昔から町内・郡内・都城市は勿論、鹿児島の一部から参拝が多かったと記されています。 的野正八幡宮は、明治四年の廃藩置県・廃仏毀釈によって大打撃をうけ、長くこの的野正八幡宮を守ってきた弥勒寺も財産を没収され、跡形もなく破壊されている。 明治四年五月、神社の社格を定める太政官布告が出され、的野正八幡宮は郷社に列せられる。翌年、明治五年七月 圓野神社と改号。 黎明二十一世紀を迎え、本殿の修復・幣拝殿御改築の奉祝を機として、平成十四年四月三十日これまでの圓野神社を的野正八幡宮と改号し五月七日に登記した。 的野正八幡宮の 由来弥五郎どんの館にあったものを記載祭神は、宇佐神宮と同じく応神天皇(誉田別命)・玉依姫命(比売大神)・神功皇后(息長足姫命)である。 的野正八幡宮は、古文書にあるように和銅3年(奈良時代のはじめ)西暦710年に創建され、三国名勝図会には「往古、大社なりしといへり」と記されている。 奈良・平安時代は荘園発達の時代に入り三俣院は700町歩の面積をもつ日本有数の荘園となる。ここで収穫される農産物の集散地として延喜式にみる水俣駅が当地(山之口・推定)に置かれたのである。駅には納税物を入れる倉庫が建ち、荘園を治める役所が設けられ、運搬用として駅馬五頭が常時配置されていた。 的野正八幡宮は、この三俣院の宗廟として栄え、新町(字名・現在も残る)は門前町様相を呈し賑わったといわれている。 武家政権の胎動と同じくして、この荘園をめぐる抗争もはげしくなっていく。肝付氏−島津氏−伊東氏−島津氏と攻防をくりかえす中でも歴代の院司や領主たちに崇敬され、伊東家の氏神になったり、島津家の氏神になったりして厚く庇護されてきたのである。的野正八幡宮の紋が島津家の紋になったり伊東家の九曜紋になったりしたのをみれば如何に大事にされてきたかがわかる。現在、的野正八幡宮の紋は伊東家の九曜紋である。 この的野正八幡宮は、明治四年の廃藩置県・廃仏毀釈によって大打撃をうけ、長くこの的野正八幡宮を守ってきた弥勒寺も財産を没収され、跡形もなく破壊されている。 |
社殿 拝殿(入母屋造)18坪 本殿(流造)12坪 |
虎? ちょっと珍しいのでご紹介 |
的野正八幡宮別当弥勒寺跡 |
御神幸行列 弥五郎どん祭り県無形文化財、国の無形文化財選択(文化庁)三俣院の宗廟として和銅3年(710)に建立された 的野正八幡宮の御神幸祭 では、御神幸行列の先頭に立つ弥五郎どんが、千数百年の時を経た今も隼人族を守り、その雄姿を今でも見せてくれます。 身の丈4mもある弥五郎どんを先頭に、的野正神社から約600m離れた池の尾神社まで、「浜殿下り(はまくだり)」とよばれる御神幸行列が行われます。 当時全国規模で行われたと思われる「放生会次第」による祭りで現存しているのは南九州では 鹿児島県曽於市の岩川八幡神社 、宮崎県日南市飫肥の田之上八幡神社 、ここ山之口町の的野正八幡宮 の三ヶ所だけと言われています。 当サイト内関連ページ 弥五郎どん 弥五郎どん祭りもご覧下さい。 |
宮崎県都城市山之口町 的野正八幡宮-2012/10- |
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