日南市飫肥・田ノ上八幡神社弥五郎様(やごろうさま)祭りこのページは一昔前に作成したものでのでスマホなどでは見辛いと思います。ご少々を・・ 田ノ上八幡神社の住所 宮崎県日南市飫肥10-3-12 アクセス: 地図リンク マピオンマップ GPS E=131.21.23 N=31.37.39 JR日南線「飫肥駅」から徒歩15分 |
隼人の叛乱と放生会(ほうじょうえ)大和朝廷が全国の地方政治をより細かく行って行く為に制定した 「養老律令」、酋長を中心に強固な共同体を組織していた隼人にとっては、中央から派遣された官僚に支配されることは大変な屈辱でした。 養老四年(720年)2月29日 大隈、日向の隼人らは初代大隈国守・陽候史麻呂を殺害、叛乱を起こしましたが、圧倒的な兵力を持つ政府軍の前に隼人の城は次々に落ち、最後迄抵抗し続け隼人達も、ついには戦死、捕虜となったのです。 養老7年(723)宇佐の集団は隼人の首を持ち帰り、宇佐神宮の西500m程のところにある松隈に埋めました。 それが 「凶首塚」 という石室古墳です。*鹿児島県国分市には隼人塚が残っています。 放生会(ほうじょうえ)と弥五郎様その後、宇佐地方では作物の不作、疫病が流行しました。これは 「隼人の乱でたくさんの反乱軍を殺した報いだ」 として 「霊を慰めるため放生会をすべし」 と宇佐八幡も託宣がありました。神亀元年(724)の事です。 隼人族の首領・弥五郎をはじめ犠牲となった、たくさんの隼人族の怨霊を恐れた大和朝廷は全国で放生会を行わせました。その名残の一つが、現在の南九州の八幡神社で行われている 「弥五郎様」「弥五郎どん」などの祭事です。 南九州三ヶ所に伝わる弥五郎様当時全国規模で行われたと思われる「放生会次第」による祭りで現存しているのは、南九州では、宮崎県都城市山之口町の的野正八幡宮、宮崎県日南市の田之上八幡神社、鹿児島県曽於(そお)市大隅町岩川八幡神社、の三ヶ所です。中でも、山之口町的野正八幡宮には「放生会次第文書」が残されており、山之口町・的野正八幡宮の弥五郎どん祭り (日向の弥五郎人形行事)は国から無形民俗文化財に選択されております。 弥五郎どんは三兄弟?尚、上記三ヶ所の弥五郎どんは三兄弟であるという説もあり、都城市山之口町の的野正八幡宮の弥五郎どんが長男、鹿児島県曽於市大隅町・岩川八幡神社の弥五郎どんが次男、日南市飫肥・田ノ上八幡神社の弥五郎どんが三男といわれています。 (各神社の創建年代より決まったものと思われます。)的野正八幡・弥五郎長壱丈弍尺余=大人弥五郎後に竹内宿禰説も浮上。(的野神社神官定極帳簿) 的野八幡神社は和銅3年(710年)創建 岩川八幡・弥五郎身の長け一丈六尺=大人弥五郎武内宿禰とも。(三国名勝図会) 岩川八幡神社は万寿2年(1025年)創建 田ノ上八幡・弥五郎長一丈有半ノ偶人=長人弥五郎稲積弥五郎・武内宿禰とも。(日向地誌) 田ノ上八幡神社は天永元年(1110年)創建 サイト内弥五郎様関連リンク都城市山之口町の的野正八幡宮の弥五郎どん都城市山之口町の的野正八幡宮の弥五郎どんまつり 曽於市大隅町・岩川八幡神社 弥五郎様 関連リンク大人弥五郎どん 隼人族悲運の主人公 宮崎の神話と伝承101(宮崎県サイト) |
弥五郎様の写真(写真はクリックすると拡大します。)神社では神事の後、獅子舞奉納 鳥居のところなど要所要所で舞います。 |
弥五郎様、先頭は獅子舞です。 決められた交差点等、何箇所かで踊っているようでした。 背丈を抑えた弥五郎様ですが、それでも茂った木の枝などが垂れてあたりそうな時には、先端に刺又(さすまた)のようなU字金具が付いた竿で一時押し上げて通過しておりました。 |
市中の御神幸行列も見ましたが、寂しいですね。子供達ががんばってのですから近くに来たら、家から出て声援をおくってあげればいいのになぁ〜と。 神社社務所前の広場では「四半的大会」が開催されておりました。飫肥と言えば「四半的」ですね。 |
南九州の弥五郎人形行事(PDF)より「田ノ上八幡神社の弥五郎人形行事」を引用
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田上八幡神社の写真 |
右写真は 田ノ上八幡神社参道階段横にある大楠です。 田ノ上八幡神社については当サイト内「飫肥のページ」にも紹介してありますので併せてどうぞ。 |
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