高千穂太郎の墓
▶ in 高千穂の史跡 posted 2011.04.19 Tuesday / 21:35
場所:崎県西臼杵郡高千穂町大字向山椎屋谷
地図:マップファンリンク
緯度経度:N=32.41.46 E=131.18.6
*地図も緯度経度も自信なし、おおよそと思ってください。
道順的には、高千穂峡ボート乗り場のところの前の道を山の方(向山方面)へ入った道沿いに入口の鳥居があります。
地図はその鳥居の位置です。
高千穂郷は、古来神武天皇の兄、三毛入野命(ミケイリノミコト)の子孫と称する三田井氏が、治めていましたが、平安末期、天慶年間(938~946)に家系が絶え、豊後の国大野郡領主大神大太惟基(おおがだいたこれもと)の長子太郎政次を養子に迎え、代々高千穂太郎を通称したと伝えられています。
その後、高千穂氏は、室町時代に三田井氏とも称し、肥後の阿蘇氏とともに九州中部に小さいながらも独立国域の平和郷を構築しいました。
戦国時代末期、豊臣秀吉の九州平定後の国割りにより、高千穂郷は県(あがた)(延岡)城主高橋九郎元種の支配地となりますが、三田井氏はこれを不服として元種に反抗します。
天正19年(1591)、元種は三田井家の家老大人(おおひと)城主、甲斐宗摂(かいそうせつ)を一計を弄して見方に率いれ、三田井家領主親武(ちかたけ)の本城「中山城」を攻略し、文禄3年(1594)三田井一族は滅亡します。
高千穂太郎の墓は、初代政次の墓として毎年4月15日を例祭日と定め、里人により大切に祀られております。
尚、墓石には「卍捐館松翁永仙大禅定門神儀(えんかんしょうおうえいぜんだいぜんだいじ)」と刻しいぇあり、周囲には「仲山城址」をはじめ、三田井氏の菩提寺の跡が残されています。
また初代高千穂太郎政次の墓の後ろには、最後の仲山城主三田井越前守親武の墓もあります。
卍 はインドに伝わる言祥のしるしで「万」を表す梵字(ぼんじ)・捐館は館を意味で貴人の死を言う。
松翁永仙は法名で大禅定を修した人で大いなる禅門 立派な仏門に入れる人をいう。
神儀は法名の下に書く神位で、死者の霊魂をさす。 (高千穂町教育委員会)
奥津城・奥都城(おくつき)とは、上代の墓のこと。また、そこから神道式の墓のこと。
三田井氏について歴史など知りたい方は下記のリンクなどが参考になろうかと思われます。
下記、尚リンク先は、Web検索で見つけたリンクです。
■ 高千穂陥落−高千穂案内(7)
■ 武家家伝 三田井氏
実は、以下の写真のような注意書きが、高千穂太郎の墓の入り口にありまして、おそらく現在は中へ立ち入る事が出来ないのかな?と思い、あきらめた経緯があるのですが、よくよく後で考えると、これはもしかしたら、丁度右横にある古民家への立ち入り禁止表示板なのかも知れないと思ってもみたり・・・。 どうなのでしょう?
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