宮崎県指定文化財 史跡 幕末勤王家海賀宮門外二士の墓
日向岬黒田の家臣の場所 日向市大字細島殺害を命じたのは誰なのか、これまではっきりしていなかった。黒田の家臣の墓のある島(古島)へは満潮時以外は歩いて渡れるようですが、今回、訪れた際にはあいにく満潮・・
近年、尚古集成館で島津久光が一子の藩主茂久(もちひさ)に宛てた書簡が発見され、芳即正(かんばし・のりまさ)氏が紹介している(「玉里島津家史料補遺 南部弥八郎報告書二」など)。
芳氏の指摘によれば、そのなかの1通に
「浪人同列、船より差し下し、船中にて如何様にも取り計らうべく申し付け遣わし候」という一節がある。
鹿児島に向かう船中で、彼らをどのように処分してもよいという密命を久光が下していたことが明らかになった。また、自藩士とくらべて、浪人の扱いが苛酷である。
3人の墓がある古島(こしま)は現在、地元の人々から「黒田家臣」と呼ばれているそうである。それは海賀が筑前藩黒田家の支藩・秋月藩黒田家の家臣だったからだろう。
この言葉からも、3人の墓が地元の人々によって大切に守られていることがわかる。鹿児島の人々ももっと知っていてよい事績ではないだろうか。 (歴史作家・桐野作人)
まえがき 三尾 良次郎第一部 「黒田の家臣」由来?黒木圧八翁の奇特とその継承 ?第一節 コシマの磯辺一 平場の死体 15二 検死の役人 18 三 ご検分書 22 四 ウコンの腹巻 26 五 役人の魂胆 29 第二節 「黒田の家臣」六 薩人の作り話 33七 黒木庄八の奇特 36 八 たしかな風聞 39 九 墓石たつ 42 十 墓石の立つまで 45 第三節 顕彰の熱十一 二つの無縁墓・海賀宮門碑文 49十二 小河の奏上 52 十三 但馬 (今の兵庫県の北部)と日向 55 十四 墓と顕彰碑 58 十五 思い残すことなし 十六 墓の文字と碑の場所 第四節 その後の 「黒田の家臣」十七 七・八十年祭 70十八 御鉾ケ浦海水浴場 73 十九 無線墓また一つ 77 十九の二 補遺・無線墓は舌水頼母のものか 80 二十 『田中河内介』 の出版 82 二十一 その後の 「黒田の家臣」 86 第五節 小伝四人二十二 海賀宮門小伝 90二十三 中村主計小伝 94 二十四 千菓郁太郎小伝 97 二十五 首水頼母小伝 100 |
第二部 「黒田の家臣」 の周辺? 寺田屋事変への道とその後 ?第六節 寺田屋事変前史二十六 寺田屋事変と志士 107二十七 滑河八郎の九州遊説 110 二十八 薩摩と河内介 113 二十九 計画かわる 117 三十 二十八番長屋 120 三十一 入薩の志士 123 第七節 久光上洛志士の動血三十二 島津久光の意図 127三十三 久光の出発 130 三十四 来る人去る人 憫 三十五 久光の改革意見 136 三十六 再度の延期 140 第八節 寺田出座事変三十七 真木保臣の到着 143三十八 薩薄志士寺田屋へ 146 三十九 浪士も伏見へ 149 四十 寺田屋の志士 152 四十一 激闘はじまる 155 四十二 激闘おわる 158 四十三 激闘のあと 161 第九節 寺田屋事変始末四十四 浪人志士の奔走 165四十五 薩長関係の悪化 168 四十六 事変関係者とその後 170 四十七 薩摩へ護送される 175 四十八 殺害の理由 179 四十九 寺田屋事変と日向びと 182 あとがき附章 海賀家の人々再刊にあたって ……・三尾 勝一 三尾良次即時年譜 著者の推理が面白い 〝「黒田の家臣」物語″出版に寄せて …日向市文化連盟 甲斐 勝 |
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